【江戸】大震災後ブームになった「鯰絵」がとてもユニークで興味深い
江戸時代の人々は大鯰が地下で活動することによって地震が発生すると信じていました。
■「鯰絵」とは?
安政2(1855)年、江戸一帯を襲った安政江戸地震直後に大量に発行された多色刷り版画。
安政江戸地震は、荒川の河口付近を震源としたマグニチュード六.九と推定される直下型の地震で、
本所、深川、浅草、下谷といった地盤の軟弱な地域を中心に死者およそ一万人、民家の倒壊一万四千戸といわれる甚大な被害を出した。
地の底で地震を起こすと迷信で言われていたナマズを、地震の守り神である「鹿島大明神」がこらしめるような絵などが描かれている。
この鯰絵登場したのは地震の翌日から、その後民衆の間で大ブームに
「鯰絵」は地震から身を守る護符として、あるいは不安を取り除くためのまじないとして庶民の間に急速に広まりまった。
200種類以上が2ヶ月間の間に発行され、飛ぶように売れた
地震を起こしたナマズをこらしめるものから、震災復興で仕事が繁盛した大工や鳶(とび)職人がナマズと一緒に儲かったお金で宴会するなどユーモアなバージョンまで登場。
鯰絵はどれもこれも幕府の無許可だったため、2ヶ月経って幕府が取り締まり、発行禁止処分となり、ブームは一瞬で終わった
当時浮世絵などの多色刷り版画には幕府の検閲を通って「極め印」と呼ばれる印がなければ流通できないシステムだった。
■鯰絵あれこれ
新吉原大なまずゆらい
大鯰と小鯰の親子を殴りつける花魁達。鯰親子を左上から助けにきたのは、地震で儲かった大工・鳶・左官たちである。吉原遊郭も地震によって大被害をうけたが、いち早く仮営業を開始、江戸の復興景気が盛り上がると、儲けた人々は吉原に戻ってきた。そのため、花魁や遊女が地震鯰を歓迎する鯰絵も出版されている
鯰と要石
地震のあった十月は、神無月とも呼ばれ、全国の神々が出雲に集まるため不在となる月である。要石に寄りかかっているのは、留守居役の恵比寿と推察されている。その恵比寿が居眠りした間に大鯰があばれたということであろうか。日頃要石で鯰を押さえている鹿島大明神が、早く行ってかたをつけなくてはと馬を急がせている。
鯰と鹿島大明神の首引
青い着物を着た鯰と鹿島大明神が向かい合って座り、首引をしている。鯰の側では地震でもうけた職人たちが、鹿島神の側では地震で被災した商人や芸者たちが応援している。
老なまず
地震で壊滅した遊廓の吉原が仮店舗で営業しているという広告のようなもの。浮世絵師『河鍋暁斎』の作品。
自身除妙法
鹿島大明神が、留守の間に地震を起こしたのは大罪だと、鯰を怒っています。
それに対して、鯰の頭が、「鯰の仲間が乱痴気騒ぎをしたので家蔵を壊してしまいました。
今後は、このような騒乱を起こしません。天下泰平・五穀豊穣を守ります」と答えました。
そこで鹿島大明神は鯰たちを許したそうです。
鯰の親子
鯰の親子が、鹿島大明神に率いられた人間に襲われそうになり、おびえて座り込んでいる。父親の鯰は青い着物を、母親の鯰は縞模様の着物を、娘の鯰は黄色い瓢箪柄の入った青い着物を着ている。3体とも手足は人間のもので、父親鯰は人々を制止するように片手をあげ、母親鯰と娘鯰は袖で頭を覆い、おびえている。
大平安心之為
地震封じの意味を保っていた前半期の刊行物。中央に鹿島大明神が威厳をもって座っていて、左下にひれ伏す4匹のナマズをにらみつけている。右下には、地震で死亡した江戸新吉原の遊女が描かれている。
世直し鯰の情
擬人化されたナマズが、被災者の救助を行っている。
大黒市中に宝の山を積む
あら嬉し大安日にゆり直す
鹿島大明神に要石で押さえつけられている大鯰。開いた口には尖った小さな歯が並んでいる。要石と鹿島大明神に向かって4体の鯰が両手を合わせて謝っている。皆着物を身にまとっており、体は人間のものである。向かって一番右側の鯰は黒い着物の背に、一番左側の鯰は青い着物の地全体に瓢箪の柄が入っている。
鯰繪
鹿島太神宮と要石とが大鯰を押えつけ、地震の元凶を鎮めるという典型的な図柄の絵である。
地震けん
拳を打つ時の動作に合わせて唄う拳唄をもじった詞書きの下に、鯰・雷・炎の三者が藤八拳(=狐拳)という拳遊びをしている。それを親父が酒を飲みながら見物しており、「地震・雷・火事・親父」を念頭に置いて作られている。
大鯰後の生酔
この鯰繪は、地震で大暴れした大鯰を魚板の上にひっくり返し、鹿島太神宮が腹を立てゝ「おれの留守中に世界を騒がせ、よくも暴れおったな」と取おさえて地震をおさめたことを意味し、これを中央に大きく画くことによって、上段のわらいの止まらぬ儲連中と、下段の泣くに泣けない大損連中とに区別して、地震の後の庶民達の明暗を画きわけている。
えんまの子のわけ
平の建舞
“貧福を ひつかきまぜて 鯰らが 世を太平の 建まへぞ寿類(する)”
要石と地震鯰
安政天下太平
鹿島大明神を前に、要石に向かって、鯰たちが謝罪している。鯰たちは皆座って頭を下げている。体の大きな5体は、着物の柄に地震を起こした地名と年月日が書かれている。
恵比寿天申訳之記
鹿島大明神に向かって、地震を起こしたことを詫びる鯰たち。皆、開いた口から歯を覗かせて、座って頭を下げ、着物を身にまとっている。
江戸鯰と信州鯰
信州善光寺地震(1847)と安政江戸地震(1855)を起こした2匹の大鯰が人々にこらしめられ、儲けた職人達がそれをいさめる様子を描いた鯰絵。
生捕ました三度の大地震
善光寺地震、安政地震、小田原地震の三尾を鹿島大明神が捕まえて、江戸の蒲焼き屋に活きたまま引っ張ってきたところ。
鹿島大明神に文句をいっているのが大工、鳶職、左官、屋根屋、香具師の五人。
――助けてやっておくんなせぇ
と、強訴っぽいけど、いわゆる哀願しているわけであります。
鯨のように巨大な鯰が、湾に浮いている。背中から潮と小判を吹き出している。漁師が舟で鯰に向かい、岸ではそれを見た人々が喜んでいる。
鯰が手に撥を持ち、鉦を打ちながら、念仏を唱えている。青い襟巻に、黒い法衣をまとい座っている。鯰のまわりを大工や左官など職人たちが取り囲み、大数珠をまわしながら、一緒に念仏を唱えている。
瓢箪
鯰退治
大きな鯰に、大勢の人が乗って、丸太や天秤棒、包丁や大槌で襲い掛かる構図。
地震雷火事親父
親父だけは人間なので仲間に加わる事が出来きない。
鯰を押さえる恵比寿
鹿島神に代わって恵比寿神が、大きな瓢箪(ひょうたん)で鯰を抑えている。地震が起きた十月は、神無月と呼ばれるように諸国の神々が出雲に集まる月である。この鯰絵では、出雲にでかけた鹿島神の留守をついて鯰が暴れたため、留守番をつかさどる恵比寿神が、鹿島神の代役となって鯰を押さえているのだ。代役であるから要石の霊力にはあずかれない。大津波や歌舞伎舞踊で知られる「瓢箪鯰」をもじって、瓢箪で鯰を押さえている。
弁慶なまづ道具
地震よけの歌
地震後の復興景気で利益を上げた職人たちを描いた鯰絵。
あんしん要石
おおぜいの人が要石を拝んでいる。
文章によると、年寄り、大工、新造、瀬戸物屋、芸人、吉原の人、医師など、いろいろな職種の人が集まって、要石を拝んで、地震が起きないようにとお願いしている絵のようだ。
鹿島恐
神官姿の鯰。兎が描かれた大幣を左手に、鈴を右手にもっている。その周りを男たちが踊っている。
諸職吾澤銭
地震で大儲けした商人たちが、更なる儲けを巨大な鯰に祈っている。
玉屋地新兵衛桶伏の段 火夜苦(ひよく)の門並
桶伏の刑を受けている鯰に、遊女姿の鯰が瓢箪を差し入れている。
上方震下り瓢盤鯰の化物
地震火災あくはらい
鹿島明神に豆で責められる鯰。慌てふためいて逃げている。
玉屋地新兵衛桶伏の段 火夜苦(ひよく)の門並
語呂合わせした金儲けの心構えを木の枝状に配し、そこに小判が実っている。その下の右側に恵比寿の扮装をした鹿島大明神が鯰を脇に抱えている。左側の大黒は、職人が扮したものである。
かべ土も落ちてうるほふ銭だるま
土壁が崩落した跡から出現した銭だるま。鯰のような衣をまとい、目や鼻、口、ひげなどがすべて貨幣でできている。
鯰の親子が人々に襲われている。父親鯰はオカメ飾りのついた熊手を振り上げて、彼らに対抗している。娘鯰は座り込んで泣きじゃくっている。親鯰の黒い羽織には瓢箪の紋が入っており、娘鯰の赤い着物も瓢箪柄である。2体とも体は人間のもので、袖から出ている腕は薄黒い。人々の姿は影で描かれている。
蒲焼きにされる鯰。鹿島大明神がまな板の上で鯰をさばいている。その脇の籠にも鯰が1体入っている。2体とも笑うように口を曲げ、歯を覗かせている。手前で蒲焼きを焼いているのは、地主である。
赤い着物をきて座る小さな鯰。その鯰を囲んで職人たちが座っている。大工は酒を飲み、左官は鳶に金を渡している。空中には要石が浮かんでいて、貨幣を巻き上げている。
難義鳥
大工や左官などの職人たちが鯰の蒲焼きを肴に酒を飲んでいるところに、難義鳥が現れ鯰を連れ去っていく。難義鳥の目は楽焼きの茶碗、嘴は椀、鶏冠は茶筅、首から背にかけての羽は櫛と簪、翼は和書と反物、そろばん、足は反物、尾は高下駄と櫓でできている。